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400本の桜が咲き誇る!益岡公園の白石城を擁する歴史好き女子に大人気!

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400本の桜が咲き誇る!益岡公園の白石城を擁する歴史好き女子に大人気!

白石駅の西1kmに位置する益岡公園は、伊達政宗の参謀として名高い名将・片倉小十郎景綱の居城である白石城跡に造られた公園です。白石城は江戸幕府が定めた一国一城制の対象外として認められた城で、関ヶ原の戦い後、仙台藩の南の要衝として、明治維新までの260余年間にわたり、伊達家重臣である片倉氏の居城として栄えました。戊辰戦争の折りには、明治政府に対抗するために奥羽越列藩同盟締結の舞台となった城としても有名です。明治初頭の廃城令により、ほとんどの建物は破却されましたが、東口門・厩口門などは寺院の山門に払い下げとなり、現存しています。また石垣は、当時のままに残されています。そして平成7(1995)年、三階櫓(天守閣)と大手一ノ門・大手二ノ門が史実に忠実に復元され、蘇りました。戦後の木造復元天守閣では高さ、広さともに日本最大級を誇る城郭建築として、学術的にも高く評価されています。日本古来の建築様式にならったもので、数百年の歳月に耐え得ると言われています。これにより、復元とはいえ、往事となにひとつ変わらない本格的な天守閣を、仰ぎ見られるようになりました。敷地内にある白石城歴史探訪ミュージアムでは、200インチのスクリーンが設置されており、3Dハイビジョン・シアターを見られます。現在は、「奥羽越列藩同盟秘話『賊にはあらず』」と「大坂夏の陣秘話『鬼小十郎帰るには及ばず』」の2作品を鑑賞できます。益岡公園は桜の名所としても名高く、400本の桜が白石城の天守閣を背景に、いっせいに咲き乱れる様は、一見の価値があります。闇のなかに浮かび上がる白石城と桜との組み合わせは、あまりに魅惑的です。公園内は史跡ゾーン・運動ゾーン・児童ゾーン・緑地ゾーンの4つに分かれています。運動ゾーンには、ナイター施設のある野球場・テニスコート・3on3用のバスケットゴールのほか、ロッククライミング用の練習壁などが整備されており、児童ゾーンには遊具のある児童公園が3箇所設けられています。益岡公園は四季を通じて、お年寄りから幼児まで幅広く、憩いの場として利用されています。

益岡公園(白石城)の基本データ

・住所: 宮城県白石市益岡町1
・入園料: 無料
・営業時間: 終日開放
・定休日: なし
・交通アクセス: 【電車・バスをご利用の場合】東北本線白石駅から徒歩で10分
【マイカーをご利用の場合】東北自動車道白石ICから車で10分
・駐車場の有無: あり / 無料
・問い合わせ先: 白石市建設部都市整備課(電話:0224-22-1325)

益岡公園(白石城)のイベント情報

4月上旬~下旬まで、「白石城桜まつり」が開催されます。
白石城は夜10時までライトアップされ、夜桜見物も楽しめます。

10月1日には、「鬼小十郎まつり」が催されます。
大坂夏の陣で活躍し、鬼小十郎の名を馳せた二代目小十郎重長の活躍を真田幸村との激闘などで再現するお祭りです。片倉軍、真田軍双方60騎の武者による合戦や、火縄銃の演武など見所満載です。また、真田幸村が大坂城落城前夜自らの子女を小十郎重長に託した史実にちなみ、真田の姫「阿梅」の受け渡しをエキストラが演じます。

益岡公園(白石城)に伝わる「大坂夏の陣秘話」

大阪夏の陣では、片倉小十郎景綱の子である小十郎重長が徳川方として参陣しました。重長の活躍は凄まじく、道明寺口において大阪城から出撃してきた後藤又兵衛の軍と相対し、後藤又兵衛を討ち取ります。その後も真田丸に拠っていた真田幸村と激戦を繰り返しました。このとき、大阪城落城前夜、自らの死を覚悟した真田幸村は、敵将である重長のもとを訪れ、子女の後事を託したという秘話が伝わっています。重長は幸村の意を汲み取り、その子女を引き取りました。このあたりは謎に包まれています。幸村がなぜ、当時まだ若干29歳に過ぎない敵将に、大切な子女を託したのか? そして、重長はなぜ独断でそれを承諾したのか? 真田幸村と言えば、徳川家康がその武勇をもっとも恐れた武将であり、徹底した残党狩りが予想されるなか、幸村の子女を秘匿していたことが露見したならば、主君伊達政宗もただではすみません。この二つの疑問を解消するには、幸村の子女を秘匿することを、政宗自身が認めていたと考えれば、すっきりします。真田幸村と伊達政宗は、秀吉の朝鮮出兵の際に肥前名護屋の陣内で会っていたとする説もあります。家康に唯一対抗しうる東北の雄として、幸村は政宗に、大きな器を見たのかもしれません。まさに「英雄、英雄を知る」の言葉通りだったのでしょう。重長に子女を預けたあと、幸村は家康本陣を奇襲し、あと一歩とのところまで家康を追い詰めますが、力及ばず戦死を遂げます。「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由」と褒め称えられる、見事な戦いぶりにより、真田幸村の名は敵味方を問わず、名将として知られることになりました。重長のもとに秘匿された真田の子女は、その後も大切に育てられ、大阪落城のときには12歳だった阿梅は、その後重長の後妻に迎えられ、78歳の生涯を幸せに暮らしました。また男児だった大八は片倉守信と名乗り、伊達藩士に取り立てられた後に、真田姓に復し、その後も真田家の家系を現代まで残しています。
幸村の子女を片倉重長が引き取ったいきさつについては、諸説あります。片倉家はもともと真田家と同じ信州の家柄であり、諏訪大社下社の神主の家柄だったことから、修験者を通じ両家には元々親交があったとする説を、真田家の子孫が伝えています。
ちなみに大坂夏の陣で華々しい活躍をした重長が白石城に凱旋した際、白石城の大手門はぴたりと閉ざされていたとの逸話が残されています。父景綱が、内心では息子の活躍を喜びつつも、「将たるものがこともあろうに先頭に立って斬り合いに及ぶとは何事」と怒り、戒めのために城門を閉ざしたと伝えられています。

益岡公園(白石城)でウォーキングをする魅力

益岡公園でウォーキングするには、白石城の歴史をたどってみるとよいでしょう。片倉小十郎の名を聞くだけで、戦国マニアであれば、涙が出るほどの感動を覚えます。片倉小十郎もこの道を歩き、この桜を愛でたのだと思うと、感慨もひとしおです。公園内を散策すれば、白石城に流れた数々の歴史上のエピソードを偲ばせる史跡を、目にできます。会津藩を盟主とする列藩同盟は、明治政府軍の圧倒的な武力の前に倒され、政府軍からは賊軍の汚名を着せられます。勝てば官軍となるのは歴史の必然であり、どうしようもないことではあるのでしょうが、列藩同盟の義や志は、けして賊軍のそれではないはずです。会津の地に散っていた列藩同盟の藩士の無念の思いが、城内にただよっている気がします。壮大な歴史ロマンを感じながら、ゆっくりと公園内を巡ってみてください。公園から出ても、白石町にはさまざまな史跡が残されているため、歴史探訪を兼ねた散策を楽しめます。武家屋敷へ向かう道すがらには、伊勢神宮の分社である「神明社」もたたずんでいます。平安時代に坂上田村麻呂が創建したと伝えられる神社です。境内には江戸時代に京都北野天満宮から分霊を受けたという天満宮もあります。益岡公園を起点に、たっぷりと歴史ロマンにひたってください。

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